第五夜

「えっ、えっく、えっ、えっ、ひぃっく、ひっく」

後宮の奥の奥。
外部からは入り込む事も出来ぬその庭園の更に奥。
自然のままに生い茂った茂みを越えたその先に小さな澄んだ泉があった。
おそらく、後宮に住まう自薦他薦の美姫達、美々しく着飾って国王の目に留まる事に心血を注ぐしか興味の無い者達は、その存在すら知らぬだろう。
何の手も加えられていないその場所には、自然のままに季節の草花が咲き乱れ、どこからか湧き出るその水は澄み渡っている。

そして、その泉の畔で、一人の幼い黒髪の少女が踞って泣いていた。

「うっ、うっ、うぇっく、ひっく」

ここなら、誰も来ない。
誰も知らないここでなら、思う存分泣いても咎められる事は無い。

まだほんの5才になったばかりの少女、キョーコは、そう思いながら泣いていた。

今日も教育係達に厳しく叱られた。
まだ5才の幼女。本来ならば、まだ親に甘えたい盛りだ
しかし、父王は己の欲望に耽る一方、娘など気にもかけない。
その正妃であるキョーコの母は、自分が産んだ娘だというのに、一度として抱きしめた事さえ無かった。彼女はただ『正嫡の王女として恥ずかしく無い』一流の英才教育をキョーコに与えるだけ。
そして、自身で揃えた一流の教育係の指示通りにキョーコがこなせないと、容赦なくキョーコを叱咤するのだ。

(どうして、わたしはお母さまの望み通りにちゃんと出来ないんだろう...)

今日も全問正解が取れなかったキョーコを、皆の前で散々に罵った。
その言葉が、どれだけ幼子の心を抉ったか。
キョーコは一生懸命頑張ったのだ。
キョーコの歳ではまだ難しいと言われる問題も必死で答えて。
その成果に教育係すら賞賛してくれたと言うのに、喜び勇んで見せに行った母がキョーコに与えたのは侮蔑の眼差しと辛辣な言葉のみ。

「なぜ、あなたはちゃんと全て出来ないの」

その冷たい眼差しは、まるでキョーコの存在全てを否定するようで。
キョーコはその場で泣き出したいのを必死で抑えた。

泣いたら、もっと嫌われる。

侍女や女官達の前でも泣けない。
人前で泣いたら、巡り巡って母の耳にも届くから。
だから、キョーコは人目を憚る事無く泣ける場所を求めて彷徨っていたのだ。
そうして、見付けたのがこの小さな泉だった。

澄んだ泉と、すぐ傍にそびえ立つ大樹はまるでその泉を守っているかのようで、一目見ただけで心奪われた。

どこからともなく聞こえる、鳥の羽ばたきの音と囀り。  
風が緩やかに四方に伸びる枝を揺らし、抜けたそれが涼やかな香りを運ぶ。

ああ、ここでなら大丈夫だ。
ここでなら思う存分泣いても、誰も咎めない。

そんな風に感じて、キョーコは心のままにさめざめと泣き続けた。

分かっている。
母はキョーコのような娘ではなく、息子...世継ぎとなれる王子が欲しかったのだ。

もし、自分が息子として産まれていたら、母は自分に優しくしてくれただろうか?
抱きしめてくれただろうか?
このまま頑張れば、いつかは母に愛してもらえるだろうか?


ガサッ


背後からの突然の物音に、キョーコは思わず振り向いた。

「ひっ、ひっく、......?」

涙で潤んだ瞳の先には、陽光に透けるような金糸の髪の麗しい少年。
翠がかった綺麗な碧い瞳を大きく見開いてその少年はキョーコを見詰めていた。
その姿があまりにも絵本の挿絵で描かれていた存在に似通っていて、キョーコは驚きと歓喜で涙すら引っ込んだ。

「......あなた、ようせい?」
「?!」

目をキラキラさせてそう問うた。
そう、少年は絵本の中の妖精のように美しく、儚気に見えた。
キョーコのその問いに少年は無言で驚いている。

「この間、読んだご本の絵と似てるのよ。妖精さんでしょう?」

戸惑う少年の様子を気にもせず、キョーコはニコニコしながら駆け寄った。

(妖精なら、妖精さんならわたしと仲良くしてくれるかも!)

同じ後宮内に、キョーコの所謂異母兄姉達はいる。
しかし、形式的に言葉をかわす程度で、その誰とも仲良くしたことなどない。キョーコの母はキョーコが他の王の子達と懇意になるのを何より嫌っていたから。
幼いキョーコにその明確な事情は分からずとも、後宮内に常に漂よう負の感情は感じ取れた。

「わたしは『キョーコ』って言うの。妖精さんのお名前は?」

自ら名乗ると、少年は更に目を見開き、その直後自嘲するように口元を歪めた。

「?」
「...僕は妖精なんかじゃないよ」

キョーコがきょとんと首を傾げながら見上げていると、少年はやっと口を開いた。

「違うの? じゃあ、だあれ?」
「...僕はレン。第三王子のレンだよ」
「だいさんおーじ? おーじって、お父さまの息子のことでしょう? じゃあ、キョーコのおにいさま?」

でも、今まで会ったことの無い『おにいさま』だ。
キョーコは心の中でそう呟いた。
この国に、父王の息子、『王子』は3人いると聞いている。
でも、その誰もが正妃の産んだ息子では無く、側室、もしくは妾妃の産んだ息子達。
その内の上二人はキョーコも面識がある。
会う度に、身分を鼻にかけた傲慢さにキョーコは親近感どころか、嫌悪感しか湧かなかったが。

(でも、この『おにいさま』は優しそう...)

その瞳の奥は孤独や悲しみをたたえていたが、少年の纏う空気は穏やかだった。

「...そういうことにもなるのかな」
「じゃあ、『おにいさま』って呼んでいい?」

幼いキョーコがわくわくとそうお願いすると、見知ったばかりの『兄』はその言葉に吃驚したように彼女を見詰めた。

「...だめ?」

心配そうに見上げるキョーコを、レンは不思議そうに一頻り見詰めた後、ふわりと微笑んだ。彼の碧の瞳が穏やかな翠に縁取られる。その綺麗な笑顔に、キョーコは心の底から嬉しかったのを覚えている。


...それが二人の出会い。
レンが9才、キョーコが5才になったばかりのことである。

その日から、キョーコはこっそりこの泉でこの『おにいさま』と会うようになった。
昔のレンは幼いキョーコにとって、いつだって優しい、頼りになる兄だった。

どんなに厳しいレッスンの後でも、どんなに辛辣に母に罵られた後でも、レンにほんの少しだけでも会えたら、頭を優しく撫でてくれたり、ぎゅっと抱きしめてもらえたら、キョーコはいつだって元気が出た。
また頑張ろう、と言う気になれた。
傍にいてくれるだけで、とても安心出来たのだ。

だから...、だからこそレンが騎士学校進学のために王宮を去ると知った時は大泣きした。

行かないで
置いていかないで
ずっと傍にいて

我侭だと分かっていたのに、散々泣いて泣いて困らせた。
離れたく無いと泣き続けた。

「...キョーコ...」

ぐすんぐすんと泣き続けるキョーコに、レンが宥めるように話しかける。

「...手を出して...」
「......?」

差し出した手に握らされたのは紫を帯びた碧く輝く石。

「...お兄様?」
「こうやって覗いてごらん?」

言われたままに石を陽にかざしてみると、碧く輝いていた石は黄緑色に変わる。

「......!! 色が変わったぁ.........っ。お兄様の瞳みたいっ」
「...それはね、悲しみを吸い取ってくれる魔法の石だよ? きっとキョーコを護ってくれるから......」

僕の代わりにいつも持っていて? 
そう優しく諭されて、キョーコにやっと笑顔が戻った。

キョーコが8才の時に、騎士学校進学のため王宮を去ることになったレンから手渡されたその碧い石は、それ以降キョーコにとって常に肌身離さず持ち歩く程の唯一無二の宝物になった。


「陛下。例の目的地に......近付いてきました。作戦調整のためにも、一旦休憩を取りましょう」

全速力で黒い愛馬を疾駆させるレンの、その少し後を並走していた側近のヤシロがそう口上した。
一種トランス状態で馬を駆けていたレンはハッと我に返る。

彼らに続くは精鋭揃いで知られる国王直属の近衛隊。『新国王レン』個人に忠誠を誓う、身分問わず実力重視で集まったその名通りの精鋭達だ。
彼らは王宮を出発してから、ほとんど休みらしい休みも取らず、闇に紛れて粛々と進んで来たのだった。
そのおかげで、夜闇に囲まれた森の中、進む先に仄白く揺らめく小さい灯りが見え始めた。
まだ距離はあるが、少なくとも(くだん)件の屋敷からの灯りが森の中からでも目の届く範囲に近付いたことを告げている。

レンは片手を上げて全隊に休憩の合図を出した。
本当は逸る心のまま、このままキョーコの元へと駆け付けたい。
しかし、急いては事を仕損じる......。ここはヤシロの言う通り調整の為にも小休止をとるべきだろう。

キョーコ。
幼かったあの日に出会って以来ずっと自分の心に住み続けた唯一人の少女。
母王妃や、教育係に、きつく叱られては、人目につかぬよう、泉で泣いていた小さな女の子。
ただ傍に居たかった。
その笑顔を守りたかった。
だが、なんの力も持たない自分では、そんな些細な望みすら難しく。

王位など望んでいたわけでは無い。
しかし、キョーコを、正嫡の王女を誰にも渡さないためには、他に道は無かった。
理性を凌駕するほどの想いに促されるまま強硬手段に出た自分。
あの子は今でも自分が贈ったあの石を持っていてくれるだろうか...。

そんなことを思いながら馬から下り、休憩を取り始めた頃、ホーホーと鳴き声を響かせ、森の闇に浮かぶ二つの黄色い光が近付いてきた。

「!!」

すぐさまレンは左腕を掲げる。それを合図に、一羽の梟が姿を現し、バサッバサッと羽音を響かせ、器用にその腕に止まった。

「陛下!屋敷の密偵からの緊急連絡ですか?!」

梟の片足に結ばれていた手紙を一読したレンの顔色が瞬時に変わった。
ちらりと己の右手首を一瞥すると、ヤシロの問いには答えず、無言のまま手紙を手渡す。
そして、さっさと自分の愛馬へと跨がった。

「......! こ、これは......! ハッ、陛下?!」

「お前達は当初の計画通り真っ直ぐ屋敷へ向かって包囲しろ。その間の指示はヤシロ、お前に任す。蟻の子一匹逃すなっ。目障りな旧王政派は今夜、一網打尽にする!」

「お、お一人でどちらへ?! 危険です! せめて供を......」

「必要無い!...後ほど合流する」

ヤシロの制止すら一刀両断すると、蓮は疾風の如く駆け出した。
...屋敷の方向からは少し外れた、森の中へと。

「ちょっ、陛下ーーーーっっ」

ヤシロの慌てた声をその場に残して。

木々の隙間から差し込む月明かりのみの薄暗闇の中、レイノは薄ら笑いを浮かべてキョーコを見下ろしていた。
両手を拘束され、大木に押し付けられ、キョーコは身じろぎ一つ出来ない。
キョーコは怯えながらも、必死で自分を奮い立たし、レイノを睨みつけた。

「は、放しなさいっ、無礼者っ」

「...嫌だね」

「な、なぜ私を狙うの?!! 私を手に入れても、あなたに王位は転がり込んでなんか来ないわよ?!」
「ふっ...王位になんぞ、興味無い」

「?! だったら、なぜっ」

「ククク...。さあ、なんでだと思う?」

質問を質問で返されて、キョーコは眉を顰める。

「あ、あの粛清で肉親を失ったことを恨んでいるの?」

そのせいでレンを恨み、一矢報いようとキョーコを利用しようとしてるのであれば...説明は付く。
いや、それしかキョーコには思い付かない。

「別に......。あの特権階級意識に凝り固まった面白みの無い親父や兄貴の末路など、俺の知ったことではない...。居なくなって清々したくらいだ」

「…あなたは一体何がしたいの?」

事も無げにそう返答するレイノに、キョーコはますます訳が分からなくなる。
そんな様子のキョーコを面白そうに見下ろすと、左手でしっかりとキョーコの右手首を掴んだまま、レイノは右手でそろりとキョーコの頬を撫でた。

「ふっ、少し見ぬ間に、随分といい女になったな。あの粛清前の、乳臭いガキと同一人物とは思えん。...あの王子の執心振りが伺える」

あくまでレンの事を未だ王子呼ばわり、くつくつとレイノが嗤う。
ぞくり、とキョーコの背筋に悪寒が走った。
目の前の男の冷め切った目。キョーコを見下ろしているのに、キョーコ自身を見てなどいない爬虫類のような...。
普通ではない、何をしでかすか分からない、冷たい...目。
本能的に身の危険を感じた。

「......さ、触らないでっ」

自由になった左手でレイノの右手を払い除けるが、逆に押さえ込まれ......噛み付くように唇を奪われた。

「!! 嫌っ」「痛っつ......」

ほとんど反射的に、キョーコはギリッと力一杯その唇に噛み付いた。
噛まれた痛みでレイノの両手が緩んだ隙に、キョーコは思い切りレイノを押しのける。しかし、

「きゃあっ!!」

不意に足下を掬われ、キョーコは前のめりに倒れてしまった。
レイノはすかさずキョーコに馬乗りになると、肩を掴んで上を向かせ......キョーコが羽織っていたマントを剥ぎ取り、露になった侍女のお仕着せに手をかける。

ビリビリッ

間髪入れずにお仕着せの襟ボタンが飛び、胸元の布が裂かれた。
一瞬にしてキョーコの鎖骨が晒される。

「い、いやぁっ、な、何を?! は、放しなさいっ。お兄様っ。お兄様っ。レン兄さまっ」

「ふ〜ん。随分とその『お兄様』に可愛がられてるみたいじゃないか?」

「? は、放してっ!」

頭の上から嘲るようなレイノの声が聞こる。その視線は開けられたキョーコの胸元に注がれていた。僅かな月明かりの中に照らし出されるキョーコの白い肌。その僅かな光源でもはっきりと分かる、無数の朱色の刻印。
一昨晩レンがキョーコに刻んだ所有の印。紛れも無い情交の証し。

「......派手に付けられたものだな」

レイノはキョーコに馬乗りになったまま、朱印の一つ一つを指でなぞる。
その感触に、キョーコは背筋から鳥肌が立った。
レンとは違う男から与えられるその感触に、キョーコは堪え切れないほどの嫌悪感しか感じない。

「クク......何が、『私達はそんなんじゃない』だ。こんなに身体中に所有印を刻まれて......さぞかしあの王子を満足させたのだろう?」

「や......い、いや」

「...何をそう怯える? 生娘でもあるまいし。随分とあの王子に仕込まれているんだろう? 俺も楽しませてくれないか?」

キョーコの鎖骨をなぞっていたレイノの手はそのままゆっくり...ゆっくりと下がり、開けた胸元から手を差し込んで、柔らかい膨らみを揉みしだいた。

「い、嫌っ、いやぁっ。触らないでっ。触れないでっ」

抵抗しようにも、しっかりと体を押さえつけられて動けない。

「ククク...。あの王子、温厚で清廉潔白な顔をして、自分の欲望にはかなり忠実なようだな? 仮にも公には異母妹にあたる者に、こうもあからさまに所有印を刻むとは...」

「え? 仮......にも?」

「くく...。やはり知らんか。あんたの『お兄様』が何者であるか」

「な......なんのこと?」

キョーコの疑問にも、レイノはただ愉快そうに、口端を上げるだけ。

「さっきの質問に答えてやろうか...?」

胸への愛撫を止めぬまま、レイノはキョーコの首筋へと唇を近付け、耳元に囁いた。

「...あの王子の大事なモノだというだけで奪う価値はある......」


ぞぞぞ...と背筋に悪寒が走るのが分かる。
耳にかかる吐息の生暖かさ。
押さえつけられた四肢。
意図を持って撫でるように滑る手。
それらが何を意味するか......。

嫌...、嫌......。

他の人になんか、触れられたく無いっ。


「いやあぁぁぁ」


キョーコの悲痛な叫びが夜の森に木霊した。







And that's all......?



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markura
(November 30, 2010)


幼き日の二人の出会いと、必死で駆け付けてるレン王、そしてストーカーに捕まってしまったキョコ姫の巻。
		

[2010年 11月 30日]

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