月光の囁き



ぱたぱたぱた......

寝間着姿の少女は時々後ろを振り返りながら、東棟へと通じる廊下を足早に駆け抜け、自室へと滑り込んだ。
ここは寂れた古い教会を住める程度に修復して出来た孤児院。
彼女はとうに孤児院から独り立ちする歳を過ぎていたのだが、常に人手不足のこの孤児院を放って置く事が出来ず、住み込みの手伝いとしてこの孤児院に留まっていた。既に年頃とされている彼女は、子供達と一緒ではなく、共同の大部屋がある母屋からは、細い廊下を隔てた反対側の東棟の二階に、小さいながらも個室を与えられていた。

部屋に辿り着いたとたん、急いでドアを閉め、内側から鍵を掛ける。


「ふぅ」

両手をドアに付けたまま、少女は安堵の溜め息を零した。


「.........おかえり、マスター・ユリア」


どきり、と少女の心臓が跳ねる。
誰もいるはずの無い部屋から静かに響いてくる聞き覚えのある声。
大抵の者ならば聞いただけで魅入られてしまうような、甘いテノール。
しかし、少女・ユリアにとっては悪魔の囁きに他ならなかった。


「なっ!どうやってー......!!」


ばっと、後ろを振り返ると 案の定、彼女の「下僕」であるはずの男 – 巨大な魔力を秘めたヴァンパイア – が、月を背後に窓縁に腰掛けていた。
月に照らし出されるその姿は、まるで夜の化身の如く、一層なまめいて見える。

「どうやってここに入ったか......、とでも聞きたいのかな?」

男はゆっくりと立ち上がると、彼女に視線を向け、小馬鹿にするように問いかけた。

「まず第一に、我々ヴァンパイアの身体能力を 貧弱な人間の基準で考えないで貰おうか?」

こつこつと足音を立てながら男は静かに歩み寄る。

「この程度の高さの部屋に忍び込む事など、俺には息吸うくらいに容易い。......マスター?」

くっと、皮肉った笑みを浮かべながら、少女をドアに押しつけ、覆い被さるように 両手で退路を断つ。


「逃げるなど、不可能ですよーー......?」
「逃、逃げてなんかっっ。大体、つい数日前にちゃんと血を飲ませたばかりじゃない!」

「あれは、あれ。今日、この度の一件で随分と不必要に魔力を消費させられたのでね、補給させて頂こうかと」

「なっ、だって、あれは!」
「あの場で、俺が介入せねばどうなっていたか、分からぬ訳でもあるまい」

冷たく言い放たれた言葉に、ユリアはぐっと言葉に詰まる。
今日は孤児院の子供達を連れて、森の奥への遠足だった。それだけだったら大した事は無いはず。自分以外にも数人大人がいたし、子供達にとっても久し振りに思い切り羽目を外せる良い息抜き。朝から用意したお弁当やお菓子を持って、楽しい一日になるはずだった。

しかし、予想外の事態......と言うのは起きるもので、遠足に出向いたその場所に、運悪く都から逃げて来た強盗どもと出食わしてしまったのだ。
急に現われた武器を持った強盗どもに男性の引率者達は真っ先に殴り倒され、残ったのは彼女を含め、女子供ばかり。
泣きわめく子供達を気丈に宥め、落ち着かせている時に、下卑た男どもは彼女を無理矢理子供達から引き離し、暴れる彼女を数人掛かりで地面に押さえ付け、覆い被さり......。
しかし、一陣の風の如く現われた彼ののおかげで事無きを得た。尤も、突風が吹き荒れた後に残った惨状たるや、とても目を開けてられるものでは無かったが。


「まったく。わざわざ駆けつけて窮地を救ったというのに、開口一番、怒鳴りつけられるとは思わなかったぞ」

......普通、礼を言うものだろう、常識ある人間ならば、と太々しく言い放つこの彼女の「下僕」。
左手に穿たれた「従属の印」のせいで、このヴァンパイアは自分に絶対服従せねばならないらしい。今は血潮に染み込んで見えないが、彼女に何かあると浮かび上がるその印。
......自分はそんなこと望んでもいないのに。


「何も全員殺す事なんか無かったじゃない!」

「......余計な情けは掛けるだけ無駄だ。あのように他人にたかるしか能のないウジ虫どもなど、長らえばまた別のところで同じ事を繰り返す」

......そういう臭いを放っている。

そう断言されて、ユリアは言葉が続かない。色々と同意出来ない蟠りは残るけども、このヴァンパイアの言葉はある意味的を射ている。押さえ込まれた時に感じた欲望に塗れた目に獣じみた吐息。それらを思い出すだけで嫌悪感で鳥肌が立つ。あの時、彼が駆けつけてくれなかったら......と思うと震えが止まらない。


「しかも、その直後にあれだけの人数の人間の記憶を消させるなどと、全く無茶を言いつける 主人(あるじ)どのだ」

「そ、それは!あなたの正体が周りにバレたらそれこそ大変なことになるし......」


一瞬で10数名の強盗どもを惨殺したたった一人の「男」の出現に、その場に居合わせた孤児院の子供達や引率の大人達が驚かない訳無く、一難去ってまた一難。何事も無く収拾するには、文字通り「無かった事にする」のが一番だった。......だから、そうお願いした。

彼は嫌そうな顔をしたが、結局はその通りにしてくれた。その場にいた全員をひとたび眠らせ、惨状の始末を付けると、また颯爽と姿をくらまし......、皆が目を覚ました時、誰も少し前に起こった事など覚えていなかった。

『それにしても、ヴァンパイアって本当に信じられない能力を持っているのね......』

その時の事を思い出し、ユリアは改めて目の前の存在が自分に従わざるを得ない事実が信じ難い。
とは言え......、


「まあ、過ぎ去ったことを蒸し返す気は毛頭無い。それだけの見返りさえあれば」


......そうなのだ。
このヴァンパイア、自分に絶対服従のはずなのに、彼女が嫌がる「吸血行為」に関しては妥協を許さない。
貰わなければ"君のせいで"朽ちて死んでしまう、と言うので、定期的に......少なくとも半月に一遍の頻度で......血を分け与えるようにしているが、それ以外にもいつも以上に魔力を使ったりするとその度に彼女に血を求める。
今日もそうなると覚悟はしていたが......、それでも足掻いてみたくなる。


「!、ア、アルッ」


ユリアは覆い被さって来る男をなんとか説得しようと試みるが、彼は にっ、と彼女の苦手な妖艶な笑みを浮かべると、手を伸ばし、綺麗な長い指で少女の頬の線を撫でた。その感触に、ぞくりと身が震える。ユリアが身じろぎをするとその動きは喉におり......顎を掴んだ。


「そう痛くはしないでしょう?......ユリア」


アルと呼んだ男に、名前を熱っぽく呼ばれて、ユリアは身動き出来なくなってしまう。

それは、どっちの行為のことを言っているのだろうか?
いつも、自分がどんなに嫌がっても、吸血行為だけでは済まないくせに。

ユリアは、きっ、とアルを睨みつけた。
自分が心底望まぬ事は、決して出来ない、主人の意志には最終的には逆らえない、と言うアル。
じゃあ、自分がこれらの行為を本当は嫌がっていないとでも言うのだろうか。
確かに......、あの強盗どもに押さえ込まれた時の嫌悪感をアルに感じはしないけど。

アルは面白そうにその眼差しを見返すと、ユリアの顎を持ち上げ、そのまま唇を重ねた。
するりと唇の合間から舌が入り込み、唇の形を探られるように貪られれる。
......吸血行為の前の、いつもの儀式。

「んっ...」

ユリアは必死で声を漏らすまいと努力した。 声--というか、喘ぎ、ほんの僅かな反応でもアルに悟られたくない。なのに、そのキスはとても官能的でユリアを不安に陥れる。

彼女はこれまで男女のキスというものをした経験が無く、せいぜい子供達と挨拶のキスを交わす程度。 だからアルのキスが果たしてどういうキスなのか判断できない。 恋人へのそれか、陵辱する女へのそれか、それとも......ただの供物への戯れか......、そんな区別すらつかない。

アルの舌とその味で一杯になり、自分の口とは思えなくなった頃、漸く彼は顔をわずかに離した。
既にユリアは自力で立つ事も覚束無い有様。


「.........アル、カード......」


少女の口から呟くように溢れた自分の名に、くくっと笑みを漏らすと、彼はユリアを抱き上げ、寝室の奥へと消えた。

少しばかり開けられた窓から入り込む夜風に、控えめに揺れるカーテン。
差し込む月光の輝きが、今宵も満月だと告げていた。


**


シーーーーンッ と辺りが静まり返っていた。

カットが入ったはずなのに、皆、赤面したまま身動き一つ出来ない。
......それほど官能的......、いや、 衝撃的だった。
暫くして、漸く時間を思い出したかのように皆ざわざわと動き出す。


「いやー、それにしても凄かったな、さっきのシーン!」
「全くだ。キスシーンだけだってのに、その後の、コホン、情事、まで彷彿とさせるような......」
「想像力煽って、 逆にもっとエロイよなぁ」

さすが、敦賀君!と、何も知らないADどもが騒いでいる。

「そりゃあ、敦賀君も色っぽくて凄かったけどさっ。俺的には、京子ちゃんの対照的な初々しさが、なんていうの?萌え心くすぐるッて言うか......」

「あーーっ。分かる、分かる!あんな小動物みたいに上目遣いで見詰められたら、征服欲と庇護欲、同時にくすぐられるってもんだよなぁ」

「そうそう。あんな表情、至近距離で向けられたら、俺だったら理性が危ないっての!」

あははは......、と呑気な彼らのコメントも、俺にとっては冗談に聞こえない。
今まさに、その理性を試されている男が身近に一人......。
って、蓮!今、どこにいる?!

慌ててセットの方へ視線を戻すと、ヴァンパイアの黒い衣装に身を包んだ蓮と、寝間着姿のキョーコちゃんが丁度降りて来るところだった。そのまま二人とも真っ直ぐ映像チェックに行く。

先ほどの名残りか、心無しかキョーコちゃんの頬がピンク色に染まっている。
蓮は平然とした顔でその横に立っているが......。


「蓮、キョーコちゃん、お疲れさま」

無事一発OKとなり、今日の分の撮りは終了した二人にミネラルウォーターを渡しながら、労いの言葉を掛ける。

「一発OKだなんて、二人とも凄いね!さっきもAD達が興奮気味にコメントしてたよ」

とりあえず、当たり障りにの無い言葉でもって会話を始める。
それにしても......、さっきのAD達の台詞じゃないけど、この映画、こういう想像を刺激する映像が多いんだよなぁ。キョーコちゃん、未成年だし、直接肌を見せるわけにはいかないからね。

キョーコちゃん演じるダンピールの少女、ユリアは、蓮演じる純血のヴァンパイア、アルカードを結果的に従属の契約でもって己の眷属にしたわけだけど、このアルカード、素直に少女に従う気など毛頭無い。
とは言え、血を分けて貰わなければ思うように能力が使えないばかりか、ほっとくと朽ちて死んでしまう。
だから、ユリアがヴァンパイアの理や習慣を全く知らないのをいいことに、自分の都合のいいように、色々と解釈を付け足して彼女に吸血行為を強いる訳だが......、その何度目かの行為の時に、そのまま無理矢理奪っちゃうんだよな、吸血だけに留まらず、彼女の純潔まで。

いやいや、あの時のシーンも断片的なフラッシュ映像だけでコマが進む形式だったのに、出来上がったものは充〜分エロかった......。

......ベッドに縫い付けられて震える細い手首。
......床に散乱される引き裂かれた衣服。
......ベッドを軋ませ、妖艶な笑みを浮かべながらゆっくりと覆い被さる男。
......剥き出しの華奢な生足と、シーツに染み込んだ破瓜の血。
......声を押し殺して啜り泣く少女と、それを見下ろす冷淡な瞳。

その瞳の持ち主は、まさに獣(けだもの)。まさに鬼畜。まさに人でなし......って、ヴァンパイアなんだから、人じゃないのは当たり前か。
なんて言うか、現実と虚像は紙一重という感じで、二人の演技に周りが興奮する中、俺一人、もしもこんな事態になったら、どう対処しよう、いや、できるかな〜、などと余計なことを考えてたよ。


「あ、ありがとうございます」

俺の賞賛に てれてれと礼をいう、キョーコちゃん。

「あ、そうだ、キョーコちゃん、これから予定は?良かったら移動ついでに夕食一緒にいかない?」

キョーコちゃんが一緒なら、蓮もちゃんと食べるだろうし!と尤もらしく話を振ってみる。

「あ、すみません、社さん。今晩は......」
「遠慮は無しだよ?最上さん。昨日夕食作って貰ったお礼もしたいし」

割り込んだ蓮の言葉に俺は即座にぎょっとした。

「お礼なんて、そんな!食後にわざわざ読み合わせにつき合って下さったんですから、こちらこそお礼がしたいくらいです!」

「え"?読み合わせ......って?」

「実は......、今日のこのシーンの役作りにちょっと行き詰まってしまって......。昨晩お願いして、お夕食を作りに行く代わりに、読み合わせというか、演技指導して頂いたんです!」

...... おかげで本番でNG出す事無く出来ました!と、はにかみながら、でも、晴れやかに答えるキョーコちゃん。
その返答に、俺は背筋に冷や汗をかくのを感じた。

確かに、二人の仲を少しでも進展させようと、都合が合う時にでも蓮の夕食を作ってやって?とキョーコちゃんに頼んでいる俺だけど、それでも今日みたいに蓮の理性が試されるシーンの前日とかは、迷える無防備な子羊を二重の意味で腹空かしている狼に放り込むような真似だけは控えていた。控えていたのに!


「そ、そうなんだ?でも、読み合わせって、.........さっきのあのシーンを?」
「は、はい!恥ずかしながら、私、キスシーンって、今回が初めてだったもので......」

その、タイミングとかが自然と身に付くよう、敦賀さんが演技指導して下さって......。
ポッ、と頬染めながら小声でぼそぼそと零すキョーコちゃんに、俺は目眩いがしてきた。

それでは、私は次の仕事がありますので、
と礼儀正しく挨拶して、そそくさと次の仕事場へと移動するキョーコちゃん。
その後ろ姿を見送った後、俺はぎろり、と 恥ずかし気も無く飄々とした分厚い面の皮を向けている男を睨みつけた。


「れぇえぇ〜〜んん...-...?」
「......なんですか?」

「なんですか、じゃ、な〜〜〜いぃぃぃ!おまえは!キョーコちゃんのおまえへの信頼をいい事に、なんてことをするんだ!」

あんな、見てる方が正視出来なくなるような濃厚なキスを、二人っきりのマンションでしたってんだろう?
それも、「演技指導」の名目で!
...それにすんなり納得するキョーコちゃんもキョーコちゃんだけどさ。


「......人を犯罪者みたいに言わないで下さい。彼女が頼んだ事ですよ?」
「そうなるように仕向けたのは、おまえの方だろう!」
「人聞きの悪い......。これも全て彼女の演技のためになると思えばこそ......」

「ふ〜ん、そーかよ。じゃ、同じように、別の誰かがキョーコちゃんの『演技の練習相手』を務めても、お前は一向に気にしないって言うんだな?」

即座に強張る蓮の表情。全く......、恋愛百戦錬磨な顔してる癖して、肝心な所が抜けてるんだから。
はぁーーーっと大きな溜め息を吐くと、

「順序が逆だろう、お前は。『そういうこと』を教えるのが自分だけでありたいなら、仕事にかこつけてでなくて、まず何よりも先に、告白しろ!」

そう指摘した。


「べ、別に俺は.........」


往生際悪く、それでも視線を泳がす蓮。この期に及んで、まだ言い逃れようってのか?!
俺は周りに誰もいないことを確認すると、この恋愛音痴にお灸を据えることにした。


「......いいのか?蓮」


俺は諭すように、言葉を続けた。

「以前も言ったけど、早いよ?女の子の成長は」

事実、最近のキョーコちゃんの成長は目覚ましい。意欲的に仕事をこなして、どんどん実力を付けて......。
磨かれて内面から輝き始める宝石のように。
土と水と太陽に育まれて膨らむ蕾のように。
......そして、その輝きと匂いは、目に見えずとも人を惹き付けるものなのだ。

「どんな理由があるのか知らないが、お前がそうやって尻込みしてる間に、どこかの馬の骨にかっ攫われても知らないぞ?」

俺はそれだけ述べると、蓮を促し、スタジオを後にした。


**


それから数日たったある日。
映画の撮りが始まる前に一旦事務所に寄り、丁度タレント部のオフィスに差し掛かったところで、ドア越しに聞こえて来たのは嬉しそうな椹さんの声。

「そうか、そうか。最上くんは頑張っているか!」

『最上くん』と言うキーワードに、一瞬蓮がぴくっと反応する。

「ええ!すごく素敵です!彼女の『ユリア』。妖艶なヴァンパイアに戸惑う初々しさが特に......!」

どうやら、椹さんが話している相手は「ムーンシャイン」の出演者でもあるらしい......一体誰だ?

「それより、どうだ?彼女、そっちの番組の方は?」

椹さんが質問を変える。「そっちの番組 」?何の事か?

「だ〜い好評ですよ!新コーナー!」
「そうそう、もう『きまぐれロック』はあの存在無くして成り立ちません!」

......『きまぐれロック』。
ああ、うちのマルチタレントユニット、ブリッジロックが司会を勤めているっていう番組だな。じゃあ、椹さんと一緒にいるのは彼らか。
そう言えば、彼らのメンバーのリーダーが、「ムーンシャイン」にも出演しているって聞いたかな。
この間の遠足のシーンで子供達に付き添って行く引率の青年役の一人を演ってたんじゃなかったっけ。
確か、ユリアに仄かに恋心を抱いている町の好青年......とかいう設定付きだったはずだ。


「ほんと、キョーコちゃんの料理の腕は最高ですよね!」

......これは、さっきの声。じゃあ、この声の主がブリッジロックのリーダーか。


「この間の茶碗蒸しも絶品でした!」

......と、続いた彼の言葉に、蓮の歩行がぴたっと完全に止まった。
「この間」?「茶碗蒸し」?「も」?
茶碗蒸しだなんて、その場でしか作れないような物を、一体どういう状況でキョーコちゃんが彼に......?


「へ〜。この間は茶碗蒸しが出たのか?」

全く驚きもしない椹さんの反応。それって珍しい事ではないってことか?
そんな椹さんの言葉に、ブリッジロックのリーダーは嬉々として説明し出した。

産地直送の新鮮な鶏肉とエビをささっと湯がき、かまぼこに生椎茸は上品に薄切りに。勿論、程良い固さに茹でた殻から出したばかりの銀杏も欠かさず。具沢山のそれらが、薄味でありながら上品に出汁の効いた卵汁の中で奏でる絶妙なハーモニー。湯気立つ茶碗蒸しを、舌を火傷せぬように気を付けながら、口に含んだそれはするりと喉を通り、そのまま溶けるように胃の中に納まり......

と、如何に絶品であったかを歌うように囀るブリッジロックのリーダー。
余程おいしかったのだろう、延々と続く彼の茶碗蒸し評論 。その勢いに、椹さんは些か尻込みしているようだ。


「やっぱり、出来立てあつあつの茶碗蒸しを、火傷しないように気を付けながら食べるのが一番うまいですよね〜」


決定打。
キョーコちゃん、彼にも料理作りに行ってあげた事があるんだ?!
てっきり、蓮ぐらいにしかそんなことしないと思っていたのに!


「リーダーってそればっかり〜〜。他に言う事無いの?」
「そうそう、例えばごちそうになったお礼に一緒に食事でも〜〜と彼女を誘う、とかさ」

きゃはは、とからかうような他二人の声とそれに怒声を浴びせるリーダーの彼の声が相次いで聞こえる。

「聞いてやって下さい、 椹さん!聞くも涙のリーダーの努力!」
「そうそう。なんど誘って断られても起き上がる、不屈の精神!」
「二人とも、いい加減にしろっ」


ブリッジロックの3人と椹さんとの会話はまだ続いていたが、蓮がすたすたと再び歩き始めたので、俺は慌てて蓮の後を追いかけた。

覗いたその横顔からは、一切の感情が読み取れない。
いや、なんとなく焦りとも怒りとも取れるオーラを発しているような気はするのだが。
どうせ、おまえの事だ、キョーコちゃんが自分以外の男に料理を作ったっていう事実が気に入らないんだろう。
......聞き出す気、満々だな。
......変に問いつめたらキョーコちゃんを怖がらせて逆効果だぞ?分かってるのか?

そんな俺の心配を他所に、着いてしまった「ムーンシャイン」の撮影現場。
蓮は平静を装ってはいたが、醸し出す無意識な不機嫌オーラに気付かないキョーコちゃんじゃない。時々、機嫌を伺うかのように、びくびくと蓮の表情を仰ぎ見ている。
......そんな表情も可愛いなぁ、などと俺でさえ思ってしまうんだから、蓮なんかもっと危ないだろう。


「......最上さん」
「な、なんですか?!敦賀さん!」

その日の撮りが終了して漸く、蓮がキョーコちゃんに切り出した。

「聞きたい事があるんだけど......」
「な、なんでございましょう?」
「君、誰かに『茶碗蒸し』と言う物を作ってあげた事がある......?」
「は?茶碗蒸しですか?敦賀さん、食べたいんですか?」

珍しいですね!敦賀さんから料理のリクエストをなさるだなんて!
と、話の主旨が掴めてないキョーコちゃんが朗らかに答える。

......いや、キョーコちゃん。蓮が知りたいのは、誰にどういう状況で作ったかってことだから!
まったく、彼氏でもないのに、どうしてキョーコちゃんへの独占欲だけはこう一人前なんだろうね?

俺が些かはらはらして事の成り行きを見守っていると(勿論、いつでも介入出来るよう、臨戦態勢で、だ!)


「キョーコちゃん、お疲れさま!準備出来てるなら、そろそろ行こうか?」

...場の緊迫を一気に別方向に転換せしめたのんきな声が割って入った。
この声、確かさっきドア越しに聞いた......。

「あ、敦賀さんもお疲れさまです!いつもながら、妖艶は吸血鬼でした!」

傍にいた俺達に気付いてすぐさま ぴしっと頭を垂れて挨拶をした人物は、小柄な、でも人の良さそうな青年で......彼がこの映画に出演してるっていう、ブリッジロックのリーダーか。
一方、蓮は会話(尋問?)中に乱入されて複雑な面持ちながら、軽く頷いて挨拶を返す。

彼は顔を上げると、にこにこと人畜無害な笑顔を浮かべたまま、キョーコちゃんに視線を向けた。

「あ!もうそんな時間ですか?ごめんなさい、 光さん。これからすぐ準備します!......っと、光さん、ちょっといいですか?」

そう言うと、キョーコちゃんは何やらブリッジロックの彼の耳元にこしょこしょと内緒話のようなことを......。
それを聞いた彼は、にこやかにキョーコちゃんに笑いかけて頷いている。
そして、その反応にほっとしたように微笑むと、キョーコちゃんはバタバタと自分の楽屋へと駆けていった。

お、や?なんか、いい雰囲気--?とか思っていたら、真横から極寒零度の冷気を纏った男の気配。


「......随分と、最上さんと親しいみたいだね」


いつものお愛想笑いを浮かべながら、平静を装いつつ、蓮は目の前の青年に話しかけ始めた。
......俺はすんごく寒いんですけど。

「...え?そ、そうですか?キョーコちゃんには、俺達の番組で凄く世話になってて......」

無神経なのか、剛胆なのか、その場の冷たい空気にも気付かず まんざらでも無さそうに、てれてれと返答する彼に、蓮の顳かみに他者は気付かぬだろう筋がぴしっと浮かぶ。
親しげに名を口にする彼に、更に不穏な空気を纏い始めた蓮に代わって、俺は慌てて介入した。

「き、君たちの番組って、『やっぱきまぐれロック』だよね!なかなかの視聴率を誇っているって噂の!」
「あ、ご存知ですか?照れるな〜。これも、ひとえにキョーコちゃんの......」
「光さん!」

パタパタと、キョーコちゃんが駆け戻って来た。

「お待たせしました!あ、でも、雄生さんと慎一さん達とはどこで合流するんですか?」
「アイツらとは、TBMで直接。だから、心配しなくていいよ?それより、夕飯の方どうする?」

どこかで軽く食べてく?と続く彼の言葉に、

「あ、それでしたら材料、いつも余分に用意して下さってるので、向こうで何か作りますよ」

それでいいですか?と返すキョーコちゃん。
目の前の二人の会話に入っていけない。否、何のことを話しているのか分からない。
......それにしても、寒い。俺の真横の空気がまた更に低くなってる......。


「俺達、これから TBMで収録があるので、お先に失礼しますね。お疲れさまでした!」
「お疲れさまでした!」


二人揃って、ぺこりと挨拶をすると、そのまま二人一緒にスタジオを後にした。
ちらり、と目だけで真横の男の様子を伺うと、案の定、えも言われぬ空気がとぐろを巻いている。


「.........誰ですか?あの、最上さんを連れ立っていった相手は」

少しして、消えた二人の方向を凝視したまま、地べたを這うような低い声が響いた。

「......確かブリッジロックという、うちのタレントユニットの一人だよ」
「......LMEの?......知りませんね」
「おまえ、自分と同じ事務所のタレントくらい覚えておけよな〜」

そんな俺のコメントなど、碌に耳に入っていないようだ。

「......随分と、最上さんと親し気でしたね」

『光さん』なんて......、俺でさえまだ『敦賀さん』なのに、と ごにょごにょ愚痴っているのが聞こえる。どうやら、か〜な〜り〜気になるらしい。

「そうか?まあ、キョーコちゃんも一応、タレント部の一員だからな。そっち方面にだっておまえ以外にも親しくなる相手が出来るだろうさ。それに......」

にやり、と笑みを浮かべて蓮を見た。キョーコちゃんのことだ、おそらく全員「石橋」姓のブリッジロックのメンバー達を区別するためにそれぞれ名前で呼んでいるだけなんだろうが......、この際それは伏せておく。

「?、なんです?」
「知ってるか?さっきの彼、ああ見えてお前と同い年だぞ?」

一瞬だけ目を見張ったような表情を浮かべた蓮を見逃さず、俺は間髪入れずに言葉を続けた。


「......蓮?後悔したくなかったら、いい加減腹を括れよ?」
「.........」

返答は無い。俺は構わず、言葉を続けた。

「キョーコちゃんがラブミー部員だからって、それに甘んじていつまでも安心していると痛い目見るぞ?キョーコちゃん自身がどうだろうと、周りがほっとかない」

......それは、蓮だって気付いているはずだ。

「自分がキョーコちゃんの『特別』でありたかったら、仕事抜きで行動に移せ!」

まったく、役柄に乗じて俺の目の届かない所でスキンシップ計るなんて、冗談じゃないぞ!
やるなら、れっきとした『そういう関係』になってからにしろ!......頼むから。

ある意味、蓮と今回の役柄、ヴァンパイアのアルカードは似ている。
初めの頃は彼女を決して認めようとせず、大なり小なり(性的にも......)ユリアを苛めていたアルカード。結局それも無意識な愛情の裏返しで......、自分の気持ちに気付いた後も中々はっきりと言葉に、態度に、表せない。
......それまでに根付いてしまった印象を覆すのは難しく、また天邪鬼だから素直に自分の気持ちを示さない。

え〜と、どういう展開で両想いになるんだったっけ?この映画......。
確か、ユリアが町の青年(光くんの役だ)に告白されてるのを偶然目撃して......、焦ったアルカードはその晩、ユリアを問いつめて、迫って、そのまま感情を吐露してしまう......んだったよな。


.....................。


ちらり、と蓮を盗み見た。
蓮は相変わらず無言のまま目を伏せている。
しかし、ゆっくりと顔を上げた時、その目には強い意志の光が宿っていた。


やっと、その気になってくれたかーー?!


折よく現れてくれた馬の骨のおかげで、どうやら焦り始めた俺の担当俳優。
俺はぐっと握り拳に力を込め、このままほっておいても蓮が行動に移す事を確信した。

......まったく、おまえとあのヴァンパイアは似ているよ。
盗られるかも知れない、と思い始めて初めて気付く、失うかも知れない恐ろしさ。
堪えられるわけが無い。擬似とはいえ、一度その甘美な甘さを味わってしまったら。

俺はそのまま小躍りしたい興奮を抑え、数日後の結果報告を心待ちにすることにした。


FIN

April 26 , 2008(初稿)
April 27 , 2008(改稿) by markura


後書き: 焔さまのリクエストの内の一つが「ブリッジロックのリーダーが椹さんにキョーコちゃんの作った茶碗蒸しの話をしているのを通りがかりに耳にする蓮」だったので、「よし!蓮を焦らすのに引用しよう!」と思い付いたのですが、う〜ん、イマイチうまく料理出来た気がしない。
補足ですが、劇中劇のヒロインは「Julia」と書いて、ユリアと読みます。ヴァンパイアの方は、吸血鬼小説で良く引用されるアナグラム、尤も今回のは安易に鏡読みですがね、で決めました。
この「月光」シリーズ、予定では、Before & After の2話形式で、劇中劇の方もプロローグとエピローグだけで済ますつもりだったのですが、頂いた反響がどうにも無視出来ないものだったので、すこしばかり中間を付足すことにしたんです。そして、その今回の話に一番合うリク内容が焔さんのだったので......繰り上げてしまいました。すみません、自分勝手で。
ちなみに、社さん視点なので、二人の進展も彼語りで抽象的なままです、これからも。
納得されたかはともかく、こんなんでも良かったら焔さんのみお持ち帰り可です。


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